判で押したように
ビールを5本飲むと判で押したように意識が飛ぶ
ウイスキイを1本空けると判で押したようにその翌日を棒に振る
掻巻にくるまると判で押したように母をしのぶことになる
ぼくんちは貧乏だったが、総中流化の流れに乗って高校生になった頃
中流の尻尾にぶら下がった感覚があった
その頃からぼくが35の時に死ぬまでが
母の生涯で唯一時間に余裕のあった時期ではなかったか
小さい頃小説を読む母の姿は想像すらできなかったが
ツボにはまったやつに出くわすと一気に読み上げてしまうのだ
高卒で上京し30を前に荷物を実家に引き上げるまでに7度引っ越した
掻巻の裏地を替えに出てくるのを母は年中行事にしていたから
都合八つのアパートのぼくの部屋を訪れたわけだ
掻巻を繕う母を目にして、タッパに入った稲荷寿司やきゃらぶきやたらのめの天ぷらを
肴に飲むのは、贅沢なひとときだった
10代から何度か問題を起こしたぼくの飲酒を母は快く思っていなかったはずだが
その日は特別のようで、ひどい二日酔いでお茶でお茶を濁していたら
なんだ、きょうは飲まないんかと不満げにいうので、あわてて自動販売機に走ったのだった
母は自分のことを語る習慣を持たない人だったから
どのような少女時代を送ったのかよく知らないが
長女でもあったし、責任感の強い少女であったことはまちがいない
そのころ働いていた物産店での旅行を一番の、掻巻上京をその次かその次あたりの
楽しみにしていたようだ
ひでおのお陰で東京中見ることができたと、7回か8回聞いた
中学生の頃まで母と二人で歩くのは気恥ずかしかったが、社会人になったらそんなことなく
待ち合わせ場所の西口改札や三番線ホームや北口出口へ、時には自転車で時には徒歩で
いそいそ出かけて行ったのだ
日本酒を一升空ける時は判で押したように8合目あたりで一度吐く
何かの拍子で母が死んだ日に視界が開くと判で押したように
はんだ付けされてしまったように
ぼくは動けなくなる